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「キャンセルカルチャー」がカルチャーを殺す日 〜「内ゲバ」としてのキャンセルカルチャー

お疲れさまです。uni'que若宮です。

突然ですが、「キャンセル・カルチャー」という言葉をご存知でしょうか?

キャンセルカルチャーとは、問題のある言動で地位や仕事を失うことを指す。法律のない倫理的な問題についても、過去にさかのぼり追及されるのが特徴だ。

キャンセルカルチャーにおいて、ある人はある日突然大衆によって

「You are canceled.(お前はもう用無しだ)」

と宣告され、社会から抹殺されるのだといいます。

「悪いことをしたのだから当然だ」「正義がなされることで社会はよくなる」そう思われる方もいらっしゃるでしょうか。

しかし僕はこの傾向に強い危機感をいだいています。オリンピック・パラリンピックでも問題となった少しデリケートなテーマではあるのですが、今日はキャンセルカルチャーについて思うところを書きたいとおもいます。


キャンセルカルチャーの危険①:私刑の暴走

キャンセル・カルチャーが危険だと思う1つ目の理由は「大衆による私刑」の威力が増幅され、「暴力」になることです。

悪事に対し罰や償いを求めることは基本的には「正義」ですし、それに沿って「私的」に悪事を糾弾することにも一定の「正義」があるように思えます。

しかし、こうした「私的糾弾」が常に正当なものであるかというとそうでもありません。(芸能人に対していまだに私生活を掘り出してああだこうだいわれることがありますが、正義どころか下卑たゴシップ趣味でしかないと思っています。「有名税」とか言われることがありますが、皆さんの税金を使っているわけではありません)

基本的に、私的糾弾や暴露が正当化されうるのは、権力の非対称性がある時、つまり弱いものが強者に対する対抗手段としてだと考えます。悪事を働いたのが権力者である場合、(司法に圧力をかけて有耶無耶にしようとするどこかの国のような政府もありますから)私的にであってもこれを暴き糾弾する必要が認められますし、正攻法で声を挙げても圧力に潰されてしまうからです。


報道にはそうした強者に対する糾弾機能があり、暴かれたスクープで政治家が失脚することはこれまでにもありました。しかしこうした時であれ留意しなければならないのは、「私的に人を罰する」のは許されてはいない、ということです。「暴く」ことは「私的」に行なわれても、「裁く」のは「法」に委ねる、というのが法治国家の原則です。(憎い殺人犯でも殺したら罪に問われます。どこかの国の政府のように自分たちの都合で不起訴とかにするようなこともありますが、だからこそ司法の独立性が必要です)


しかし、「キャンセルカルチャー」はこれにとどまりません。まず、「弱者から強者への対抗手段」を逸脱し、「私的な個人」に対しても攻撃をしかけます。先程述べたように、強者に対する非対称性がない場合や強者が弱者に対していたずらに暴露や糾弾をするなら、それはむしろ「いじめ」に近いものではないでしょうか。そしてさらに、キャンセルカルチャーはその多数性によって、「暴く」というだけではなく「罰する」ところにも踏み込んでいるように思います。薬物も不倫もいじめもたしかに不法行為ですが、大衆がそれを「罰する」というのはやはり行き過ぎではないでしょうか。

政治家に悪事があり辞任を求めるのならともかく、私的に「個人の仕事を干す」ことを目的としたネガキャンが張られることがあります。「悪事を働いた人を裁いてなにが悪い」という主張もあるかも知れませんが、こうした「正義をかさに着た私刑」は往々にして行き過ぎるからこそ、「法」は「私刑」を禁じているのです。

「自粛警察」が実際にはただのリンチ集団であるように、正義の名をかさにきた「私刑」は、実態としてはストレス発散、逆恨みや妬みから攻撃が止まらなくなっただけのことが多いように思います。(日本では権力者だけでなく「有名人」や「タレント」に対する攻撃が多いことからも「憂さ晴らし」であることがわかります)

誰かが下ろされたり干されたりするのをみて「当然の報い」とか「ざまあwww」と思う。それはもはや「正義」とはほど遠いでしょう。しかし、私たちはあまりにも容易にそうした暴走をしてしまう。だから「私刑」は禁じられているのです。

また、SNSの炎上ケースにおいて、それを拡散する人はほとんど断片的情報しか手にしていません。実情をきちんと理解しないままに(しばしばほとんど誤認のような内容が拡散され)糾弾は増幅され、「大衆による私刑」が行われてしまいます。

法的な世界においてすら「誤認逮捕」や「冤罪」があります。法廷では弁護により誤認が認められ無罪が勝ち取られることもありますが、キャンセルカルチャーにおける「私刑」ではそういうことはありません。断片的な情報からの誤認であっても「制裁」はすでになされてしまう。それが誤認でも、「逆転無罪」も謝罪会見もありません。


キャンセルカルチャーの危険②:超・監視型社会の到来

また、「キャンセルカルチャー」は、「超・監視型社会」を生みます。

近代の監視型社会については、「パノプティコン」というメタファーがありますが、

ミシェル・フーコーがかつて解説したとおり、効率的な監視・管理を成り立たせるのは「見られているかもしれない」という看守の視線の内化です。パノプティコンにおいては、看守棟に実際に看守がいるかは見えないようにされています。実際にいま看守がいて自分をみているのかどうかはよくわからない。でも見られているかもしれない。そうするとやがて囚人は、看守がいなくても常に監視されている、と感じるようになり、おとなしくなります。


現代にはこれに加え、「デジタルタトゥー」があります。一度した不祥事や失敗もインターネットの海に放たれると「タトゥー」のように一生(死んでも?)残る、ということです。

私たちはいまや、”現在において”監視されているのみならず、生まれてから今までの過去もすべて監視される監獄の中にいるのです。pan(全方位から)optiocon(見られている)だけではなく、perma-opticon(永遠に見られている)

「誰かが"いま"自分を監視しているか」はもはや問題ではありません。”いま”「看守」がいなくとも、その気になれば(時間を遡って)いつだってあなたを糾弾し、罰することができるからです。


キャンセルカルチャーの危険③:反動化・保守化

また、デジタルタトゥーによるキャンセルカルチャーは社会の「反動化」「保守化」を引き起こします。

なぜなら、デジタルタトゥーは「忘却」や「変化」の機能を持っていないからです。4半世紀前のことだって、昨日の事件と同じ強度のHOT TOPICになります。

誤解しないでいただきたいのですが(本当に誤解しないでいただきたいのですが!!)、僕は「過去のことは何でも水に流されるべきだ」と主張しているわけでは全くありません。罪は罪ですし、反省とともに償われなければいけません。「いじめ」はそんなゆるい名前ではなく、れっきとした暴行罪、犯罪です。

どれだけ反省しようが償えないことやなかなか取り返せない信頼というのもあります。強姦犯を番台に座らせたり幼児性犯罪を犯した人を幼稚園の先生に、というのは、さすがに不用意です。一生をかけても取り戻せない信頼というのもあります。なんでもかんでも平等とかではなく、目的と傾向が合致したふさわしい人を探すべきですし、わざわざそこに当てず、距離をとる方が本人のためでもあるでしょう。


とはいえ、時代が変わる、というのもまた真実です。体罰を持って指導することは今は絶対に許されないですし、これからも絶対に許されてはいけませんが、僕らの時代にはある程度当たり前のことでした。中学時代には「相談室」というすりガラスで外から見えない部屋がありそこでは仕留めにくるような体罰もあったし、それをする教師だって命がけみたいなとこもありました。そして、正直に言って僕が子供の頃、今よりはるかに障害者差別や国籍差別はあり、加担しないまでも見過ごした方は少なくないと思います。僕らの世代の誰が、そうした差別とはまったく無縁に過ごしたと言えるでしょうか?

変化するということの中には、必ず差分があります。それは過去に対してだけでなく、現在においても言えることです。正しいとか問題ないと思って「いま」私たちがしていることも、「50年後には」許されないことになっているかもしれないのです。食事を残すこととか、女の子にピンクの服を買うことも、「あり得ないタブー」になっているのではないでしょうか。

繰り返し言いますが、だから罪をなあなあにしよ?、ということではありません。それを許してはいけないからこそ社会をアップデートしていく必要があるのです。ただ、問題はその責任を個人にだけ押し付けるのはちがうのではないか、とおもう。必要なのは社会をどう変えていったらいいのか、とみんなで考えること、自分はそれを再生産していないだろうか、と考えることであり、誰かを「やり玉」にして「キャンセル」してしまうことではないのではないか

よく、「”おじさん”の価値観がアップデートされない」という意見を聞きます。自身もおじさんなのでよくわかります。しかし、もし、

「あなたはむかしこんなこといってたから有罪!」と(考えを改めても)ずっと責められ続けるとしたら、誰が社会の価値観を変えたいと思うでしょうか。価値観を変えることでかえって「昔はこうだったくせに嘘つき!」とか「裏切り者!」と言われるのなら、人はなるべく今のままの価値観を突き通したほうがいいことになります。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」とイエスに言われたら、私は「すみませんでした!!」と土下座しますよ。一度も間違ったことのない人しか社会問題を語っちゃいけないとなると、誰も語れませんよね。

人も、社会も、変化します。失敗も罪も、あります。それを償わないでいいわけではありませんし、なんなら償えない罪すらあります。それでも失敗し反省し学んで進んでいくしかない。これからの日本はとくにそうなのではないでしょうか。

キャンセルカルチャーはそうした動性を否定し、変化を殺します。


キャンセルカルチャーは「内ゲバ」に似ている?

「私刑」・「監視」・「反動」。

こうして並べてみると、「キャンセルカルチャー」は「内ゲバ」にすごく似ている気がします。

国家権力の暴力装置(警察等)に対する暴力=ゲバルトを公然と表明する新左翼であるが、革命という共通した目的をもつ左翼陣営の内部にありながら、路線対立・ヘゲモニー争いを理由に、ある党派が別の党派に暴力を行使する。これを内部ゲバルト、略して「内ゲバ」という。

「国家権力の暴力と闘う」という大義をもちながら、そこで実際に起こったことは内向きの暴力であり、集合的に暴走していくそれを止めることができなかった。

「キャンセルカルチャー」もまた、(それが最初は正義感からのものだったとしても!)「私刑」「監視」「反動」が進み、いずれ「閉塞的」な「殺し合い」になってしまうのではという気がします。

そこで殺されるものはなんでしょうか。「私刑」に怯え、「監視」のために自由を失い、変化すら許容されない。僕はそこで殺されるものはまさに「文化」なのではないか、という気がします。

文化は監視され、殺菌された、きれいなものだけからは生まれません。いかがわしさも含めて異質性があることによって、そこに起こる葛藤や攻防の中から、発酵や培養するように生まれてくるもの、それが文化ではないでしょうか

キャンセルカルチャーは「カルチャー」という名を名乗っていますが、皮肉なことに「カルチャー」そのものを殺す薬剤なのではという気がしています。「キャンセルカルチャー」にとりつかれた時、人は(殺菌し漂白されたかりそめの「ホワイト」を求めながら)窒息してしまう気がします。

キャンセルカルチャーに乗って誰かを批判したり、拡散RTをする時、その私刑の刃はいつか自分にも返ってくるであろうこと、監視しあい、変化を受け入れない社会へと進めて本当によいのか、一度立ち止まって考えてみませんか?

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